華報寺

華報寺

水原助市の墓(伝)

佐籐念腹評伝

相馬御風の詩

開湯は809年である。弘法大師空海が錫杖をついて湧出させたという開湯伝説が残る、新潟県内で最も古い歴史がある温泉。 鎌倉時代には幕府に温泉税を納めていた。
江戸時代に見る温泉番付「諸国温泉功能鑑」に「越後出湯の泉」として記されている。 「漲泉窟」は江戸時代、徳川幕府の直轄領「天領」だったが、江戸時代の終わりと共に国から払い下げがあり、 源泉の周りの家々7軒が「七軒衆」という組織を形成し、源泉を引き継ぐこととなった。
その後、 七軒衆の内、一番公共性があるということで、華報寺が代表で管理をし、七軒衆が温泉業を営む権利を持っている。
 
奈良時代 – 天平5年(734)行基菩薩来村。海満寺(現:出湯 華報寺)創立。羽黒
         優母尊製作。
平安時代 – 大同4年(809)弘法大師空海 来村。五頭山 開山。
1132年 – 出湯温泉のある笹神地域は当時「白河庄」と称され、藤原九條家に伝領
               された。
            九條家の命を受け城 長茂が開発領主に入る。 この頃、藤原九條家の菩提
    寺京都:東福寺の関係から僧侶を招き海満寺が創建された説が有力で
                ある。当初より温泉は利用されていたようである。
鎌倉時代 – 城 長茂一族に変わり源頼朝の命を受け伊豆の豪族 大見 家秀が「白河
                庄」の地頭にはいる。海満寺、大見氏の菩提寺となる。 荘園領主:藤原
                九條家の息のかかった寺院であり、地頭大見氏の厚い庇護のもと、山を
                階段状に切り崩し整地して本坊のほか、 四院三十二坊がある壮大な寺院
               となっていく。
    現在の出湯温泉の階段状の地形はこの頃に形成された。当時は現在の
    出湯温泉地内は全て寺院が立ち並び、 僧侶以外の村民は現在の出湯駐在
    所後方のあたりに集落をかまえていた。
1230年頃 – 無関普門禅師(大明国師)来村。
    無関普門が幼年期過ごした村松町:正円寺僧:寂円は大見氏の出であり
    寂円は叔父に当る。
    当時の寺主 本智和尚無関普門禅師の聡明さに驚きその席を譲る。
1284年 弘安6年 – 「越後文書:行定書状」のなかでは出湯温泉は「温川条」と呼
    ばれていた。
永仁5年 – 在銘経筒 1759年出湯 薬師堂近くより出土。(現在所在不明)
永仁7年 – 「南無阿弥陀仏名号板碑」宗祖一遍流の草書体に書かれた板碑にみる
       日本最古のもの。
正安元年 – 在銘経筒1963年 出土。蓮台野(現:出湯温泉南側)より多数の鎌倉
    様式石仏群発見。
    その数体は北方文化博物館にも展示されている。
1238年 – 北越風魔 暦仁の大火災 1300年頃 – 目洗沢(現華報寺の南側)高阿廟址
    とよばれる礼拝所と在銘の出土品が明治39年発見。県指定文化財。
    寺伝記がこの頃残される。
    「白河庄」の地頭 大見氏は水原氏,安田氏、山浦氏に分家しそれぞれ
    の地頭をおく。
南北朝時代 – 鎌倉幕府の衰退と共に大見氏の勢力が減少し、壮大な寺院を誇っ
      た海満寺も減少していく。
室町時代:
文明九年(1477) – 村上市 耕雲寺六世大庵梵守和尚、荒廃していた「海満寺を
    再興し「華報寺」と名称を改める。
    江戸時代初期頃 – 海満寺の衰退に乗じて村下にいた住民が寺湯近くへ
    移動し住処を構える。
宝永4年(1707) – 出湯には華報寺のほか十四軒の住民がいた記録があり
   「清廣館」など民宿的な宿をしていたようである。
安永7年5月(1778) – 温泉税(現在の入湯税)の支払いが行われた。
    江戸期は天領(徳川幕府直轄地)。
1835年 – 華報寺門前に旅籠が軒を連ね門前町の様相の温泉街ができる。
    国道290号からの現在の温泉街入り口通りもこの頃できる。
    弘法大師ゆかりの温泉として多くの湯治客で賑わいを見せる。
明治初期 – 天領(徳川幕府直轄地)が払下げられ、源泉の周りの7軒が「七軒
    衆」と称し源泉の持ち主となる。七軒衆の内、一番公共性があるこ
    とから華報寺が湯屋を管理する事となる。
明治14年 – 華報寺寺湯改築。「漲泉窟」とよばれ木造の西洋舘つくりの、当時
    としては、洒落た作りであった。「角屋」「白根屋」が寺湯となり
    に移り本格的な宿の形態を造る。
明治14年 – 浴場改修工事時に温泉井戸(現:華報寺共同浴場源泉)より鎌倉
    様式銅製仏像、仏具、唐銭など出土。
明治16年 – 旅館一覧 十二軒。・川上貞吉・甚右衛門・熊太郎・小林兵吉・清
    野善四郎・善兵衛・辰右衛門・太郎右衛門・徳右衛門・福蔵
明治17年 – 目洗場の源泉を使い天然病院「洞春舘」開業。その1棟は戦時中
   「清廣館」と共に陸軍病院として使われた。
大正8年 – フォード社のオープンカーで水原 – 出湯温泉・村杉温泉までバスを
    走らせる。新潟県で2番目の乗合バスであった。
昭和8年 – 旅館一覧 十四軒:荒木や・大石屋・角屋(現・廃業)・兼清(現・清廣
    館)・唐橋屋(現・廃業)・ 川上イト(現・廃業)・清水屋(現・廃業)
    ・白根屋(現・廃業)・石水屋(現・廃業)・珍生舘・洞春舘(現・廃業)
    ・中喜屋(現・廃業)・みなもとや(現・廃業)
昭和28年 – 株式会社出湯温泉発足。新たに源泉を温泉掘削し共同浴場を新設。
    (現:新湯共同浴場)

 
水原町編年史にも水原親憲の嫡男の墓石が、在ること記載しています。
先代の住職にもお話を伺いました。西川町の資料でも確認しています。

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